4月は興福寺がアツかったが、5月は山形がアツい!
なんといっても、山寺(立石寺)本尊・薬師如来坐像が50年に1度のご開帳というのがメインなのであるが、山寺からは少し西へ離れたここ慈恩寺でも、それに合わせて特別開帳「慈恩寺秘仏展」が行われている。
慈恩寺はさくらんぼで有名な寒河江市にあり、かつてはかなりの規模の寺院であったようだ。寺伝によれば、行基がこの地に感銘を受け、聖武天皇の勅命をもってインド僧の婆羅門僧正を遣わし、開山したという。
実際には法相宗の寺院として平安後期から発展したようで、慈恩寺という名前も法相宗の祖である慈恩大師からつけられたもののようだ。その後、様々な宗派が混在する形となり、江戸時代に天海大僧正との関係で天台宗となるも抗争が発生し、天台・真言の兼学となった。現在では慈恩宗として独立した宗派を形成している。
東京を早朝に出て東北道を一路北へ。仙台の少し手前の村田JCTで山形自動車道へと入り、奥羽山脈へと分け入っていく。何本ものトンネルを超えて、東京から5時間ほどかけてようやく山形盆地へとたどり着いた。
遠くに見える月山が真っ白だ。頂上周辺の白くやわからいカーブを見るたび、まるで大福のようだな、といつも思う。おいしそう。
慈恩寺は寒河江の市街地からは離れた山沿いの斜面に建てられている。
お寺の近くに行くまでは細い路地を登っていく形だが、すぐ近くにかなり広い立派な駐車場が完備されていた。
4月末の奈良も花がきれいだったが、そこから北上した春の波は5月末の山形にちょうど至ったところのようだ。
山門はとても大きく立派だ。仁王像はちょっと門とサイズが合わず小さい。しかし、よく見るとなかなかいい表情をしている。
境内に入ると人がまばらで少ない。山寺の混雑ぶりを聞いているので、山形屈指の古刹であるこの慈恩寺ももう少し人が多いのかと思ったが、ここまではなかなか来ないのかもしれない。
本堂は重厚な雰囲気だ。建物は度重なる火災に遭って現在のものは江戸時代初期のものだが、1300年という慈恩寺の歴史を物語る雰囲気を十分に備えている。
お堂の内陣へと入ると大きな厨子が鎮座している。これを「宮殿」と呼ぶそうで、この中に本尊の弥勒菩薩坐像を始めとするたくさんの仏像が収められているという。ここは滅多には開帳しないそうで、何かの節目で開くのだそうだ。
宮殿に向かって左手の間で、今回の特別開帳が行われていた。4体の仏像が暗い中、照明の中に佇んでいる。
4体は以下のとおり。
阿弥陀如来坐像 (平安時代:国指定重要文化財)
大日如来坐像 (鎌倉時代:県指定有形文化財)
観音菩薩立像 (鎌倉時代:市指定有形文化財)
勢至菩薩立像 (鎌倉時代:市指定有形文化財)
いずれも小さく、可憐な感じだ。造形も細やかで非常に美しい。表情や体のバランスを見ても、地方仏の雰囲気ではない。慈恩寺は興福寺の末寺的扱いであったということや、荘園的な性格を持っていたということで直接中央の文化が流入していたといい、こうしたところに如実にその風を感じる。
ポスターや看板になっていた勢至菩薩像は、写真では普通に合掌しているように見えたが、実物を見て驚いた。右腕に関しては、手のひらの付け根からから肘までは欠損しているのだった。こうした欠損の仕方は初めて見たが、かえって何とも言えないほどのインパクトを与えてくれた。
本堂を出て一段下がったところにある三重塔へ。体部が太く堂々としている。現在のものは再建だが、当初の塔は、かの最上義光が建てたという。
塔の初層部には、表情からして慶派と思わせられる大日如来座像が中央に安置されていた。しかし保存状態は悪い。肩に鳥の糞らしきものがついていたのは問題だ。三重塔そのものにも、初層内部や第2層など、至る所に落書きが目立つのはとても残念だ。
本堂前に戻り、そこを通り過ぎると小ぶりなお堂がある。
これが薬師堂。
まず入って正面には鎌倉時代作の薬師三尊像。中央の薬師如来は京都で作られ、脇侍の日光・月光菩薩は京都からやってきた仏師たちによってこの地で作られたという。なかなか堂々としているが、江戸時代以降の後補とみられる光背は像に比べても大きすぎてバランスが悪い。
その後ろに別間のようなところにずらりと並ぶのが、慈恩寺の白眉とも言える十二神将像(鎌倉時代 国重文)だ。>姿は慈恩寺HPへ
鎌倉時代作で、慶派仏師による作とも目されている。ほとばしる肉体美と造形は慶派らしさを如実に感じさせてくれる。これらも、明らかに地方仏の雰囲気ではない。狭い空間にギュウギュウに並んでいて、思ったよりも小さいが、とにかくすごいパワーだ。
12体が揃っており、すべてが国指定重要文化財であるが、うち2体は江戸時代の後補だそうだ。しかし、よくあるような後補アリアリな状態ではなく、どれがそうなのかよく見てもわからないほどで、後補をした仏師の腕というものにも感嘆させられた。
これは一見の価値がある。素晴らしい十二神将だった。
山形名物の玉こんにゃくをいただいてから、眩しい緑に包まれた慈恩寺を後にした。
※慈恩寺特別開帳
普段は基本的に秘仏として開帳日が定められていない本堂の宮殿が、寒河江市政60周年を機に開帳されることになりました。
期間:2014年6月1日(日)~7月21日(月・祝)
〒990-0511 山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31番地
TEL.0237-87-3993
拝観料:500円
拝観時間:8:30〜16:00
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コメント
コメント一覧 (2件)
※旧サイトより模擬復旧
犬のマーク
2016年7月28日 11:06 AM 編集
こんにちは
東京でバスガイドをやっているものです
近々 お勉強会で山形に向かうのですが…
慈恩寺は残念ながら枝葉のコースでお勉強会では立ち寄らない処になっておりまして
ブログを拝見させていただいて
こんなに素敵な処があるのだと思い
理解を深めるために質問させていただきたいと思いました。
天海大僧正といえば日光に行った時に
お話しさせていただく人物なのですが、
なぜ、天海大僧正との関係で慈恩寺の宗派が変わってしまったのでしょうか…?
教えていただけると嬉しいです
※旧サイトより模擬復旧
ソゾタケ
2016年7月28日 11:34 AM 編集
>犬のマークさま
ご覧頂きまして本当にありがとうございます!
バスガイドさんなんですね。いろいろなところでの説明をされるのは本当に大変なことと思います。
さて、慈恩寺と天海上人のお話です。
慈恩寺は奈良時代に創建を持つと言われる古い寺院なのですが、その時々の権力者によって翻弄されてきた歴史を持っています。平安時代には藤原氏の影響を受けていて、もともと法相宗寺院だったようですが、藤原氏の氏寺である奈良・興福寺は法相宗の本山ということもあり、その庇護で隆盛を極めたようです。
その後、藤原氏が滅び、鎌倉時代になっては源頼朝のもと、真言宗の寺院となっていきます。
現在慈恩寺のある場所は寒河江市ですが、その寒河江に領地を持っていた鎌倉幕府の重臣・大江氏、のちの寒河江氏の庇護を受けます。南北朝時代に入るとまたしても動乱に巻き込まれ、戦国時代になると、今度は寒河江氏を滅ぼした最上氏の影響下に入ります。
その最上氏も江戸時代になって改易されると、寺は存続のために、徳川家康の側近でもあり、江戸幕府の当時の仏教政策の最重要ポストにいた天海僧正に接近します。天海は天台宗の僧侶であったこともあり、天台宗への改宗をすることで庇護する、という話になったようです。しかし、改宗にはお寺の中でも大きな反対が起きて分裂状態になったようです。20年ほどの抗争状態だったようですが、幕府が仲裁して、結果的には”玉虫色の解決”という感じで、真言宗と天台宗の兼学、という形で治めた、ということのようです。
以上です。何かのお役に立てれば幸いです ^ ^