今年の夏も暑い。
最近は夏は暑く、冬はそんなに寒くはないものの雪がやたらと多い、という感じの気候だ。夏の雨の多さも異常で、熱帯化しているというよりは、気候のバランスそのものが崩れているような気がする。
そんな暑い中ではあるが、お寺へ行きたいという思いは、自分としては夏の明るい雰囲気とともに盛り上がる。
私は幼少の頃から奈良に頻繁と訪れていたことは今までのエントリでも取り上げてきたが、夏休みも当然のように奈良へと行っていた。夏の奈良は非常に暑い。
そんな中、車を運転しない子どものころだと電車を乗り継いだり歩いたりして汗をかきつつも、緑深くセミしぐれのお寺に着くとホッとしたものだ。お堂に入るとひんやりとして別の空気が流れている中、じっくりと素晴らしき仏像たちと向き合う、そんなことがとても好きだった。
夏のお寺と言えば、今もよく覚えているのは、東大寺戒壇院(戒壇堂)のことだ。
現在は正面の門から入るのだが、私が中学生から高校生の頃は長い期間、前庭の部分を工事していた。ひょっとしたら発掘もやっていかもしれない。なので、入り口は西側の門だった。お堂も西側の扉が開かれ、正面は扉が閉じられていて、中は障子から入る光だけの薄暗い空間だった。
現在は戒壇の2段目までしか上がれず、四天王は全員が南を向いているが、かつては最上段まで上がることができ、かつ四天王は全員が中央の多宝塔を向いて立っていた。つまり、拝観者は四天王と同じ目線で向き合うことができたのだ。
外は猛暑、お堂の中は薄暗くひんやりとしている。そこで、あの素晴らしき塑像の四天王たちと、障子の光だけの中、誰一人いない中で向き合うと、明らかに生きている感じがしたものだ。広目天の頬がピクピクっと動いたのを見たような気がしている。
外の蝉しぐれが遠くなるような錯覚を覚えつつ、ひきこまれて動けなくなっていた。そんな自分を懐かしく思い出す。
と、前置きが長くなりすぎたが、そんなわけで夏のお寺めぐり、仏像めぐりは結構好きなのだ。
明るくさんさんと照りつける太陽のもと、車を中央道を西へと走らせる。もう何度も何度も通っている道だ。桃の生産日本一として名高い地域にある一宮御坂インターで降り、山筋へと走らせる。
大野寺という小さな集落があり、その最も上まで上がると福光園寺の門が姿を現す。
福光園寺は、寺伝では聖徳太子まで沿革を遡るという古刹で、平安末期に復興し、武田信玄の深い帰依を受けて隆盛を極めたという。鐘楼門をくぐり、正面には現在工事中の毘沙門堂、そしてその右に収蔵庫がある。こちらの中には素晴らしい仏像が収められている。ご住職に扉を開けていただく。
吉祥天および二天像(鎌倉時代 1231年蓮慶作)国指定重要文化財
山梨県の寺院には素晴らしい仏像が多く遺されているが、その白眉とも言えるのがこの仏像であろう。体内墨書が遺されており、慶派のひとりで甲斐で主に活動したという蓮慶が寛喜3年(1231年)に制作したとの旨が記されている。
同じ山梨県内にある大善寺の本堂にも、蓮慶作の十二神将が遺されている。字面から、同じ慶派の代表的な仏師・運慶と混同されることもあったとのことで、大善寺の十二神将も一時は運慶作とされたこともあったという。
吉祥天坐像 像高112cm
坐像の吉祥天像は日本に2体のみだというので非常に貴重である。
慶派の仏師らしく、切れ長の目や、頭髪がきめ細やかに整然としており、全体としても非常に高いレベルの造形バランスが目を引く。非常に素晴らしい。美しいというよりも凛々しい感じの吉祥天である。
衣紋がまた独特ながら面白い。
吉祥天の衣紋の造形というと、袖口が三重になっていたり、腰のところで縛って少しゆとりをもったような造形になっていたりするイメージがあるが、袖がこのような花が開いたような形というのはここでしかお目にかかったことがない。
シンプルで一切の無駄がなく、造形が非常にバランス良くまとめられているのは運慶もまさにそうだが、こうした大胆で前衛的な表現も積極的に採り入れているところなどはなかなか興味深いところだ。
この角度で見ると、竜雷太に似ているような気がする。
木目が印象的な二天像であるが、とりわけ持国天は顔の木目が効果的に出ている。
二天像のうち、この持国天立像は金箔等の色彩をよく遺しており、金箔の上に墨で書かれた甲冑の1枚ずつに「天」という文字が書かれているのがわかる。
毘沙門天立像 像高117cm
こちらも木目が印象的だが、それ以上にキリリとしたイケメンっぷりが際立つ。非常にかっこいい。
毘沙門天は吉祥天の旦那様ということで、イケメンご主人ということだろうか(笑)
この二天像は踏んづけている邪鬼もなかなかナイスだ。
持国天像の邪鬼は大きく開けた赤い口と髪型が印象的。苦しそうだ。
毘沙門天像の邪鬼は、ちょっとおとなし目だが、指や爪の表現がリアルでいい。
おしり側から見るとちょっとかわいい。
収蔵庫内には大きな涅槃図も掲げられており、これがまた立派である。小さな動物や、迦陵頻伽なども見事に描かれている。
収蔵庫を出て、工事中の毘沙門堂に入れていただく。正面の厨子に入っている不動明王は年2回ほどのご開帳のある秘仏であるが、厨子に向かって右側の石像の吉祥天像がかなり気になる。
摩耗が激しく、時代の特定は難しいようだが、平安時代から、さらに遡って奈良時代までも視野に入るという説があるというから驚きである。
向かって左側には役行者がいるが、この表情はどちらかというと、役行者というよりも柿本人麻呂のような好々爺という感じである。
毘沙門堂を出て、収蔵庫との間の植栽の間を抜けて上がっていくと小さな観音堂がある。
香王観音(かおうかんのん)立像 藤原時代 一木造 像高152cm 県指定文化財
見ての通り、かなり腐食が進み後世の補修も多いと思われるが、平安仏らしい雰囲気がよく伝わってくる。
よく見ると、その優しくも凛々しい表情がわかる。
「観音」という名前になっているが、実際には衣紋は天部の造形となっていることから、もともとは観音として作られてはいないと考えられているそうだ。
見た目は吉祥天でありながら、薬師如来として(もしくは神が薬師として具現化するときは菩薩として姿を現して)祀られたという「吉祥薬師」という信仰の形態が存在していたことが、京都の広隆寺などに遺された像から推測されている。
詳細は下記リンクのブログ「観仏日々帖」が非常にわかりやすいのでそちらをご覧頂きたい。
古仏探訪~広隆寺の秘仏・薬師如来立像 御開帳拝観記 〈その2〉 【2022.12.14】
そのブログでも取りあげられている、現在は京都府の薬薗寺に安置されている薬師如来立像などは、手が逆ではあるものの、まさに香王観音と共通する雰囲気があるではないか。
吉祥天は奈良時代より「吉祥悔過会(きちじょうけかえ)」(福徳の仏である吉祥天に罪を懺悔し、五穀豊穣や福徳を祈る法会)の本尊として全国で祀られてきたが、そのほとんどが独尊。現在各地に遺されている吉祥天が独尊なのもそのせいだろうか。しかしこちらの吉祥天は三尊を形成しているのが非常に珍しく、唯一とのこと。墨書から見ても当初からこの形式だったらしい。
毘沙門堂に奈良時代にまでも遡ろうかという石像の吉祥天像が遺されていることからも、この地に吉祥天信仰があったことが窺えるが、吉祥悔過会はそもそも薬師悔過会とともに官立の国衙や国分寺で行われるのが通常だったのが、甲斐では福光園寺(吉祥悔過会)と大善寺(薬師悔過会)に分担させた、という説もある(大善寺の本尊は平安時代の薬師如来)。もしそれが正しい場合は、福光園寺はもともと吉祥天信仰の聖地となるべくして作られた、ということになるだろう。さらに、香王観音が吉祥薬師であった場合、薬師悔過会の要素も同時に採り入れられた時期があったのだろうか?
毘沙門堂の石像、香王観音、そして蓮慶の吉祥天像と続く流れがあったのかもしれない。なかなかロマンがある説である。
福光園寺は最近は地域の人たちを集めてヨガ教室をやったり、以前のエントリでも登場した仏はんこ師のnihhiさんの個展を開いたりとなかなか精力的に活動されている。最近、いろいろな場所のお寺が活発な活動をされているのを目にすることが多くなったが、本来、お寺は人が集まってこそ、ということを考えると、とてもいい取り組みなのではないかと思う。
福光園寺を後にして山を降り、B-1グランプリ優勝の甲州鳥もつ煮を味わった。
帰る頃には周囲は真っ暗であったが、勝沼からは山梨市の花火を遠望できた。
暑い中のお寺めぐりと花火。自分にとってはとても夏らしい風物詩を味わいつくせた山梨旅であった。
〒406-0817 山梨県笛吹市御坂町大野寺2027
TEL:055-263-4395(拝観要予約)
拝観料:志納
駐車場:門前に3台くらいなら止められる(無料)
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