麻績、読めるだろうか?
私は初めて見たときは全く読めなかった。「おみ」と読むのであるが、「麻(お)を細く裂いて、より合わせて糸にすること。また、それを職とする人。」とコトバンクにはある。大辞林には「青麻(あおそ)を績むこと。また、それをする人。」ともある。いずれも万葉集に登場する言葉らしい。苧環(おだまき)=糸を環状に巻いたもののことも麻績と言うそうだ。
この地が麻績という名前になったのは、古代に麻績をつくることを職掌とする麻績氏の部民であった麻績部氏が居住していたから、ということで、東山道の時代にも「麻績駅」が置かれ、江戸時代にも麻績宿が置かれている。

私からすると、どちらかというと、鉄道の駅の名前である「聖(ひじり)高原」という名前の方が馴染みがあった。この「聖」というのは鎌倉時代の越後の高僧のことだそうで、麻績にある、今の聖山に籠もって修行したことに由来するようだ。
この聖山は古来より信濃北部の信仰の山と言われていたという。奈良時代に役行者が戸隠山で修行をしているとき、この地より薬師如来が飛来したため寺を開いた、という伝説もある。四阿屋(あづまや)山、以前のエントリでも紹介した冠着山と、この聖山で、「筑北三山」と称したと言い、地図を見ると、この三つの山塊によって麻績の里が包み込まれているような感じだ。修験道の聖地だったということだが、高原でもあり、ここが仏教の一大聖地だったとすると、まるで高野山のようなものだったのだろうか。
聖山を水源として生活している地元の人が「ひじり曇れば雨となる」と信仰した雨乞いの山でもあったそうだ。今はスキー場が有名、という感じの場所ではあるが、そうして歴史上では数多くの由来を持っている地であり、高僧が修行したりしてきた街道筋のこの地は、他にも多くの寺院も有していたようで、山麓には36もの寺院が存在したという。
福満寺はその聖山の麓に位置している。

役小角の伝説もあるが、『井堀薬師如来縁起』には、嘉祥二(849)年、慈覚大師円仁が東国を巡った際に道に迷い、紫雲に導かれて当地に至り、巨木から薬師三尊などを彫り、堂を建て、多くの信者に福満が無量であることを願って福満寺と名付けた、と伝えられている。なので、元々は天台宗寺院であり、聖山信仰の中核を担ったという。
長野のあちこちの寺の寺伝にたびたび登場する謎の存在である真海法印が江戸時代に中興し、その後、寂れたという。元々は現在地よりもさらに北方、つまり聖山へと1.5kmほど登った崖下あたりに存在していたそうだが、山崩れもしくは衰微によって、江戸時代の元禄元(1688)年に現在地に移されたというから、真海法印が中興したというのはそのタイミングの話かもしれない。かつての境内は調査されてはいないようだが、蓮平、鐘つき堂、坊平などの地名に名残を残すという。
少し山麓に降りたことになるが、それでも街から上がって行くと、かなり登らないと到着しない。集落を外れて、この一本道の先に寺があるとは思えない雰囲気になるが、終点には大きな寺院が静かに佇んでいる。

お寺全体が森の中に包まれている感じだが、ところどころに屋根や建物が見えている感じだ。

山門には金剛力士像(麻績村指定文化財)が納められている。


山門をくぐると、深い森の先に赤い銅張り屋根の印象的な建物が見える。

ここにかつては本尊の薬師如来坐像が納められ、薬師堂と呼ばれていたが、薬師如来は今は収蔵庫に遷り、ここは護摩堂となっているそうだ。棟札より、建造されたのが元禄十六(1703)年で、青木喜兵衛を棟梁として建てられたことがわかっている。

護摩堂の左奥に、白い収蔵庫「瑠璃殿」が立っている。こちらの収蔵庫は昭和36(1961)年に建てられたということなので結構古い建物だが、塗り直しているためかきれいだ。
瑠璃とはサンスクリット後の音訳で、深い青のことを表す言葉である。薬師如来は青い光りを放ち衆生を救済するということで、正しくは薬師瑠璃光如来という。本尊が薬師如来なので、そうした名前を付けたのだろう。


しばらく待っていると、下の庫裏から女性が上がってきて鍵を開けて下さった。
中に入ると、思わず声が漏れてしまうほど、素晴らしい空間が広がっていた。木材に包まれたような温かみを感じる室内であるが、同様に、「木」そのものといった雰囲気の仏像たちがたくさん並んでいる。
※収蔵庫内の撮影には特別な許可を頂いております。



その中央に坐すのが、本尊の薬師如来である。
薬師如来坐像(藤原時代)像高147cm 総高387.9cm 桂材 寄木造 国指定重要文化財


この場合の総高というのは、台座から光背までの高さということで、その規模は東日本最大級だというが、像そのものは半丈六ということになる。


素地仕上げなのかどうかはわからないが、木そのものの雰囲気がとても温かい。

印象的ななのは、まずは目だろう。大きくて、まさに切長だ。そして口がかなり上にあって鼻と近く、そのせいか、やや幼子のようなかわいらしさもあある。

かつては50年に一度の開帳で、人目に触れる機会が少なかったという。盗み見した人は目が潰れた、なんていう逸話もあるとか。薬師如来は目の効能もあると言われているのに、ちらりと見ただけで潰してしまうなんて、薬師如来の怒りは恐ろしいのだろうか…。
そういえば山形・山寺の本尊も50年に1回の開帳で、そんなような話があった。あれは確か、こっそり写真を撮った人が命を落とした、というような話だった記憶がある。あちらも薬師如来である。

それにしても堂々たる姿だ。東日本随一という姿でありながら、非常に暖かい。幼子のような可愛らしさがあるということもあるのだろうか。ホッとしてしまう暖かさに包まれるような感覚だ。

日光・月光菩薩立像(鎌倉時代)像高 114.7cm(日光菩薩)115.5cm(月光菩薩)ヒノキ材 寄木造 国指定重要文化財 妙海作

作者の妙海については、光久寺のエントリでご紹介したように、善光寺の門前に軒を連ねていた仏像屋の一つを運営していたと思われる仏師である。

「善光寺住」と名乗っているが、善光寺の僧侶ではないようだ。善光寺聖たちが各地に善光寺信仰を広めるために作られていた仏像を制作するのが主だったようだが、妙海はそうした仏師たちの中でも、大檀那を立てての仏像制作にも関わることもあり、抜きんでた存在であったようである。

現在遺されている妙海作と判明している仏像は9体のみであるが、実際に妙海としての活動年間もかなり短い。前エントリの光久寺の日光・月光菩薩が最初期の作であるが、その15年後に制作された、この福満寺の日光・月光菩薩が最後の作例となる。はからずも、妙海の最初と最後の作例を拝観できたことになる。

同じ日光・月光菩薩であるが、比較すると、やはり最初とはかなり違った作風になっていることがわかる。初期の光久寺像も細かく非常に美しいが、全体のバランスとしてはやや硬い。そうした点から見ると、やはり福満寺の像の方がより洗練され、作品としてのまとまりがあると感じる。
しかし妙海らしい、ということでいうのであれば、やや少し離れたようにも感じるところもある。妙海といえば、眉と眉がつながった連眉(れんび)というイメージもあるが、こちらの像はそれも弱い。

妙海の遺した9体の仏像の中で、白眉と言われているのは、諏訪から南に下った辰野町の上島普門院観音堂の十一面観音立像であるが、そちらはまさに全盛期という感じの出来で、私が訪れたときは正面に近い状態でしか拝観できなかったが、非常に素晴らしいものだった。
その緻密な造形に比べると、それから9年後に作られたこの福満寺像は、技術が落ちたというよりも、無駄な力の抜けた状態、とでもいうような、リラックスしたものを感じるのである。洗練された、というのがどういう状態のことを表すのかはわからないが、ある意味、最後の作品において、肩の力の抜けた、自分なりの到達点に達したのかもしれない。

妙海仏でひとつ気になるのが、木の材料である。
光久寺の像はヒノキであるが、比較的黒い材を使っていて、艶も多い感じであった。辰野の上島普門院観音堂像はカヤであるが、同様の雰囲気で、黒さがあった。しかしこの福満寺像は光久寺像と同じヒノキであるものの、色が白っぽく、風合いがずいぶんと違う。そうしたところも違いを感じる要因なのだろうか。
宋風を感じさせる脚部の衣紋の美しさはは変わらず。しかしやや角の落ちた雰囲気がある。


寄木造で、蓮肉は別材であろうが、蓮弁は墨で描かれていた。

妙海といえばやはり手の造形の美しさであるが、最後の作であるこの像も、その点は最初期から変わらず、比類のないほどの非常に美しい造形であった。




他にも、印象的な仏像がたくさん安置されている。
毘沙門天立像(藤原時代)169.0cm 桧材 寄木造 国指定重要文化財

不動明王立像(藤原時代)像高159.5cm 桧材 寄木造 国指定重要文化財

2体とも、もともとは後世の彩色が塗られていたようだが、修理の際に剥がして素地に近い状態となった。修復から戻られたばかりのようだ。

修復前は眉が太すぎたりしていたようだが、今は像の造形そのものの美しさがよく感じられるようになっている。


等身大の非常に立派な像であり、天台宗らしさを感じるこの2体が、ここまでの状態で遺されているというのはなかなかないことではないかと思う。


平安時代の木造天部像(四天王)(麻績村指定文化財)もなかなか個性的で魅力的だ。



天部立像(四天王)のひとつとして考えられているようだが、こんな状態の像もある。

頭の一部が欠けているのか、破損したものを載せているのか、それとも別の像のものを充てているのかわからないが、さらに脚先から邪鬼までも失われており、その部分を木で補うようにして立っている。痛々しくもあるが、木に戻っていくような雰囲気もあって何だか不思議な魅力がある。他の天部立像に比べると、やや造形が違うようにも感じられる。一具ではなく、少し後の像だろうか。

また、両サイドには十二神将も揃っている。


やや小ぶりながらも、どの像もとても個性的だった。









賓頭盧尊者像が有名とのことであるが、圧倒されるうちに時間がなく、じっくりと拝観できなかったのが悔やまれる。また改めて拝観したいと思う。
客殿の千手観音像も拝観させていただくことができた。

千手観音坐像(藤原時代)像高106.5cm ヒノキ材 彫眼 寄木造 麻績村指定文化財

珍しい坐像の千手観音像である。

藤原時代(平安時代後期)らしい表情だ。修復が多いようだが、もともとの像容や雰囲気はよく伝わってくる。



千手観音の前には十王像も並んでいた。

個性的な造形で、なかなか魅力的。

奪衣婆は玉眼がとれていて、もともと怖いのにますます怖さが増している。

お寺を後にして、教えていただいた福満寺近くの北アルプスを一望できる場所へ行ってみた。本当にいい天気に恵まれた。


ご住職の娘様はこの地域に住む人たちとともに、地域を盛り上げようという意欲に満ちており、この日のしばらく後には、お寺の前でマルシェを開くと話して下さった。マルシェにもぜひ訪れてみたいと思った。

福満寺は、麻績の町からはかなり上った、人里離れたところにあるのであるが、深い緑に包まれて佇む素晴らしい仏像たちに会い、ここが決して埋もれてしまうような場所ではなく、この自然とともに、人々との交流の場として、これから新たなステージを開きつつ、この先へと継続していく力を秘めている場所であると感じた。
遠くに住む私も、必ずまた訪れるだろうな、と、不思議とそう感じる、そんな場所であった。

【福満寺(ふくまんじ)】
住所 長野県東筑摩郡麻績村山寺
問い合わせ 教育委員会 長野県東筑摩郡麻績村麻3836 麻績村地域交流センター
電話番号 0263-67-4858
駐車場 無料駐車場が門前にあり
拝観料 志納

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